記憶と速度のあいだで
Emma and Tomoya — Between Memory and Speed
到着
あの旅のことを思い出すとき、不思議なことに、景色よりも先に浮かんでくるのは、エマの歩き方です。
ブリスベンからの長いフライトのあとで、彼女は到着ロビーに出てきました。片手で腰を支えるようにして、ゆっくりと、まるで床の硬さを一歩ずつ確かめるような歩き方でした。私を見つけると笑ってくれましたが、その笑顔が少し遠いところから届いたように感じられたのを、いまでもよく覚えています。いえ、正確には、そのように記憶しているだけなのかもしれません。
“Don’t say anything,” Emma said. “I know I look like a folded deck chair.”
“I wasn’t going to say anything.”
“You were going to say something kind. That’s worse.”
私は何も言わず、彼女のキャリーケースを預かりました。そのかわり、乗り換えの切符を買いに行くあいだ、いつもより少しだけ歩く速さを落としました。気づかれていたかどうかは分かりません。たぶん、気づかれていたのだと思います。
私のバッグの底には、この旅の本当の目的が入っていました。鈴鹿のあたりに、戦争の時代、航空や軍需にかかわる施設があったこと。それについて何年もかけて集めてきた、古い地図と、拙いノートです。エマの目的はもっと簡単で、そして切実でした。平城京の広い空の下でヨガをして、固まってしまった背中をほどくこと。
“Two very different pilgrimages,” she said, once the train had pulled away from the airport. “Yours is about remembering. Mine is about unclenching.”
“They may not be so different.”
“Oh, that’s very you. Say something wise and then look out of the window.”
私は窓の外を見ました。海が遠ざかり、やがて低い屋根と田んぼが流れていきました。秋のはじめの、少し白っぽい光でした。
広い草原
平城宮跡に着いたのは、午後も遅くなってからでした。
だだっ広い草地が、どこまでも続いていました。遠くに復元された建物が小さく見えます。何もない場所だと聞いていたのですが、何もないからこそ、かえって、そこに何があったのかを考えてしまう。そういう場所でした。
エマはサンダルを脱ぎ、草の上にマットを広げました。
“Don’t watch me,” she said. “I’m going to make unflattering noises.”
“I’ll read my notes.”
そう言ったものの、私はノートを開いたまま、結局、一行も読めませんでした。彼女がゆっくり前に折れ、ゆっくり身体を起こしていくのを、視界の端でずっと追っていたからです。海洋生物学者である彼女は、潮の満ち引きを数えるように呼吸を数えます。吸って、止めて、吐く。その規則正しさは、この広い草原にふしぎなほどよく馴染んでいました。
“Tomoya.”
“Yes?”
“It’s quiet here. I didn’t know a place could be this wide and this quiet at the same time.”
“There used to be thousands of people here.”
“Maybe that’s why.” 彼女はマットに仰向けになり、目を閉じました。”Maybe a place stays quiet out of respect.”
私はノートを閉じました。そのとき私は、鈴鹿のことを考えていたのだと思います。人がいなくなったあとの場所の静けさについて。
夕暮れの門
夕方、朱雀門まで歩きました。
朱色の柱が、傾いた日を受けて、ほんの少し燃えているように見えました。門のむこうに、うすい雲が引き伸ばされていたのを覚えています。
“It’s much bigger than the photos,” Emma said.
“They always are.”
“Are you going to tell me it was rebuilt, and that rebuilding is a kind of remembering?”
“I was going to say something like that.”
“I know.” 彼女は肩を軽く私の腕にぶつけました。”I’m learning your sentences before you say them. It’s getting dangerous.”
触れたところが、しばらく温かいままでした。私は門を見上げるふりをして、それが何でもないことのように立っていました。
静かな展示室
閉館までの一時間ほどを、奈良国立博物館で過ごしました。
仏像の前で、エマは長いあいだ立ち止まっていました。ガラスケースの向こうの穏やかな顔を、彼女はまるで海の生きものを観察するときのように、飽きずに見つめていました。
“Why do they all look so calm?” she whispered. “Nobody is that calm. Not even after yoga.”
“Perhaps it isn’t calm. Perhaps it’s patience.”
“What’s the difference?”
私は少し考えて、それから、答えませんでした。ガラスに私たち二人の姿が薄く映り込んで、仏像の顔に重なっていました。並んで立つ二人のあいだは、思っていたより近いものでした。
宿の夜
その夜の宿は、奈良白鹿荘でした。
近鉄奈良駅から商店街を抜けて、歩いて数分のところにある、落ち着いた和風の旅館です。博物館からも歩いて行けました。建物は昭和のはじめに建てられ、のちに手が入れられたものだと、玄関で聞いたような気がします。入口の脇の暗がりに、鹿が一頭、何でもない顔で座っていたのが、エマにはひどく嬉しかったようでした。
“He’s waiting for a check-in,” she said. “He has a reservation.”
部屋は別々でした。畳の和室に布団が敷かれ、小さな冷蔵庫と、座卓がありました。夕食は、それぞれの部屋に会席膳が運ばれてきました。大和の食材を使った、季節のお料理だったと思います。ひとつひとつの小鉢が、あまりにきれいに並んでいて、崩して食べるのが惜しいほどでした。壁の向こうでエマも同じ膳に向かっているのだと思うと、箸を動かすのに、いつもより少し時間がかかりました。
食事のあと、私たちは大浴場へ行きました。樹齢二千年という古代の檜を使った浴槽だと、仲居さんが教えてくれました。檜の香りが湯気のなかにひろがって、そこにいるだけで、一日の長さが身体から抜けていくようでした。
湯上がりに、廊下の窓辺の椅子で、また会いました。そこに椅子があったと記憶しています。
“My back feels almost human again,” Emma said. 浴衣の袖を直しながら、彼女は言いました。
“Good.”
“Is that all? Just ‘good’?”
“I’m very glad,” I said. “I would rather say it quietly.”
エマは笑いました。それから、しばらく窓の外を見ていました。街灯のあかりが、細い道の上でひっそりと揺れていました。
“Tomoya. Tomorrow, when you go to Suzuka… can I come with you? I don’t know anything about it. But I’d like to know why it matters to you.”
私は、準備してきたどんな答えも使いませんでした。
“I’d like that very much.”
それだけでした。けれど、あの夜の廊下で交わした短い言葉は、この旅のどの場面よりも、はっきりと胸に残っています。
鹿とのひととき
翌朝は、宿で茶がゆの朝食をいただきました。奈良の名物だというやさしい味で、エマは「これなら毎朝でも」と言いました。それから私たちは、奈良公園まで歩いて向かいました。
公園の入口の近くで、売店の方から、鹿せんべいを一束買いました。薄くて茶色い、素朴なせんべいです。エマがそれを手に持った途端、どこからともなく、鹿が集まってきました。
“They can sense it,” Emma said. “Like sharks and blood. Sorry. Occupational hazard.”
“Please don’t say that in front of them.”
一頭の鹿が、エマの前で、ゆっくりと頭を下げました。深く、二度。
“He’s bowing,” she whispered. “Tomoya, he’s actually bowing.”
“Is that a greeting or a negotiation?”
“I’d say both.”
エマは、売店の脇に立っていた看板の注意書きを、きちんと読んでいました。与えてよいのは鹿せんべいだけであること。じらしていると、服を噛まれること。そして、この季節の雄鹿は気が荒くなっているので、近づきすぎないこと。少し離れた木の下に、大きな角をもつ雄鹿が立っていましたが、私たちは遠くから眺めるだけにしました。
“He’s trying very hard to look cool,” Emma observed.
“I think he’s succeeding.”
そのあいだにも、小さな鹿たちが、私たちのまわりに集まっていました。エマは腰をかがめて、せんべいをひとつひとつ手渡していきます。やがて私は、あることに気づきました。彼女は、背中のことを、もう一度も口にしていませんでした。
そのとき、私のコートのポケットから、古い地図のコピーが半分ほどはみ出していました。次の瞬間、一頭の鹿の口が、それをくわえていました。
“My map!”
“Division of labour,” Emma said, delighted. “I feed. You rescue.”
私は両手で紙の端をつかみ、鹿とささやかな綱引きをしました。結果は私の勝ちでしたが、地図の隅は、湿って、少し破れていました。エマは、声を上げて笑いました。あんなふうに笑う彼女を、私は旅の初めから、まだ一度も見ていなかったと思います。
最後の一枚になったせんべいを、彼女は私の手に持たせました。
“Your turn. Last one.”
小さな鹿が、私の前で頭を下げました。手が少しだけ震えたのを、覚えています。そのとき、彼女の手が、私の手の下に、そっと添えられました。鹿がせんべいを受け取るあいだ、私たちは二人とも、動きませんでした。
昼のテーブル
鹿せんべいの粉を手から払いながら、私たちは公園のそばのバスターミナルへ向かいました。
西棟の一階に、「鹿珈」と書いて「ロカ」と読むカフェがあります。白い鹿のキャラクターのロゴが、バスターミナルのなかに、何気なく溶け込んでいました。奈良の食材で、低糖質で、高たんぱく。そういうお店だと、エマがメニューを読みながら教えてくれました。
“Low carb,” she said, with great suspicion. “In a country that invented the rice ball.”
“I believe it’s for people who want to live a long time.”
“Then we should order the most serious thing on the menu.”
私たちは、大和牛と大和ポークと大和肉鶏の三種盛りのプレートを頼みました。運ばれてきた皿は、直径四十センチもあって、エマは真顔で言いました。
“This is not a plate. This is a small continent.”
低温でじっくり焼かれた肉に、黒酢と生姜の効いた玉ねぎが添えられ、脇には野菜のサラダとスープ、自家製のピクルスが並んでいました。私は何の心配もなく、そのサラダをいただきました。エマはそれを見て、なぜか少し嬉しそうでした。
食後に、奈良で二十四代続くという漢方のお店が監修したスパイスのキーマカレーを、ふたりで少しずつ分けました。それから、奈良産のいちごのソフトクリームも。私は甘いものをあまり頼まないのですが、あの日は、彼女が「半分こ」と言うのを断る理由が、どうしても見つかりませんでした。
窓の外では、鹿が観光客のあいだをのんびり歩いていました。
土地の記憶
鈴鹿に着いたのは、午後も半ばを過ぎたころでした。
鈴鹿サーキット稲生の駅から、歩いて向かいました。いまのこの一帯は、レースと遊園地の場所として知られています。けれど私が追いかけていたのは、この土地が別の顔をしていた時代のことでした。この周辺には、戦時中、航空や軍需にかかわる施設があったのです。
私は古い地図のコピーを広げ、いまの風景と、ひとつひとつ照らし合わせながら歩きました。エマは何も訊かず、少し後ろを歩いてくれました。
“There’s nothing here that tells you,” I said at last. “That’s the difficult part. You can walk around for an hour and see only a pleasant afternoon.”
“So you carry the map.”
“Yes.”
“Then I’ll carry the water bottle.” 彼女はペットボトルを高く持ち上げ、真面目な顔をしました。”Division of labour.”
私は笑ってしまいました。平和について調べるという作業が、どれほどひとりきりのものだったかを、そのとき初めて知ったのだと思います。同じ地図を持たなくても、隣を歩いてくれる人がいるだけで、土地の重さは少しだけ違って感じられるのでした。
地図の端は、まだ少し湿っていました。鹿の口のせいだと思うと、私は何度か、笑いをこらえなければなりませんでした。
歓声のなかへ
地図を畳んだところで、エマが言いました。
“Tomoya. We’ve been outside the fence for two hours. And inside, there are people screaming happily.”
“It’s a theme park.”
“I’d like to go on a ride. Just one.” 彼女は少し考えてから、付け加えました。”Or five.”
私は断る理由を探しました。調べものの時間が足りなくなる、とか、遊びに来たわけではない、とか。けれど、そのどれも口に出す前に、彼女の目の奥にあった疲れが、すっかりほどけているのに気づいてしまいました。
私たちは、パークパスポートを二枚買いました。
最初に乗ったのは、小さなレーシングマシンを自分で運転するアトラクションでした。
“Prepare to lose,” Emma said, pulling the harness tight.
“I intend to drive responsibly.”
“That’s what losers say.”
結果は、彼女の圧勝でした。私は慎重すぎる運転で、小さな子どもにまで抜かれました。エマはゴールのあとで、勝利のポーズを三回やりました。
次は、パトカーに乗って、街のどこかに隠れた猫を探すアトラクションでした。
“Cat! Left! LEFT!”
“I see it!”
“You don’t see it! There! Behind the bus!”
私は座席で身を乗り出して、いつの間にか声を張り上げていました。自分でも驚くような、子どものような声でした。そのあとも、ミッションをこなしていくような仕掛けのアトラクションを、いくつも続けて回りました。自分で操作するものが多くて、二度、三度と、同じものに挑戦してしまいました。
気がつくと、日が傾いていました。ベンチに座って息を整えながら、私は、ある事実に思い当たりました。この二時間ほど、地図のことを、一度も考えていなかったのです。
“What’s the matter?” Emma asked.
“I forgot about the notes. For two whole hours.”
“And?”
“I don’t know yet.”
彼女は何も言わず、ただ、隣で自動販売機のお茶を二本開けて、一本を私に渡してくれました。
夕暮れの食卓
夕方になって、私たちは遊園地のアドベンチャーエリアにある、アドベンチャーグリルに入りました。
大きな店で、席は百七十ほどもあるそうです。ハンバーガーを中心にした、にぎやかでボリュームのあるメニューが並んでいました。まわりは家族連ればかりで、子どもたちの笑い声が、天井の高い店内に何度も跳ね返っていました。
エマは、お店の人気だというニューヨークバーガーを頼みました。熱々のハンバーグに、ミートソースとチーズソースがたっぷりかかっています。私はロコモコにしました。
“This is the most American thing I’ve eaten in Japan,” Emma said, holding the burger with both hands. “I feel I should apologise to Nara.”
“I think Nara will forgive you.”
“And you? You’re very quiet.”
私は店の中を見回しました。鉄板の音と、子どもたちの声と、トレイを運ぶ人たちの足音。つい数時間前まで私が地図の上でたどっていた土地で、いま、これだけの人たちが何の心配もなくハンバーガーを食べている。私は、そのことを、どう受け止めればよいのか、少し分からなくなっていました。悲しいわけではありませんでした。むしろ、その反対のような気もしました。
“I was thinking about the two hours,” I said. “I felt guilty, for a moment. Then I looked at this room, and I thought: perhaps this is what all that remembering is for. So that someone can sit here, noisy and full of burger, and not have to think about it.”
エマはしばらく黙っていました。それから、ナプキンで指を拭いて、言いました。
“Then you didn’t forget the map. You gave it a rest. Like my back.”
その言い方が、あまりに彼女らしくて、私は笑ってしまいました。
テーブルの上で、彼女の手が、私の手のすぐそばにありました。触れてはいませんでした。ほんの数センチの距離で、私たちはそれぞれ、水の入ったグラスを持っていました。
“Next time,” Emma said softly, “you’ll tell me what you were going to say in the corridor.”
“Yes,” I said. “Next time.”
あれが約束だったのか、先延ばしだったのか。いまの私には、どちらだったのか、よく分かりません。ただ、窓の外がだんだんと暗くなって、遠くのコースの方から、エンジンの音がかすかに聞こえていたことだけは、よく覚えています。
終
Between Memory and Speed: A Nara and Suzuka Love Story
Summary
Right, so. Our Emma lands in Kansai after a proper marathon of a flight, back playing up something rotten, and Tomoya’s there with his battered maps and notes on the wartime sites round Suzuka. They’ve got different reasons for the trip, but it turns out they’re not as far apart as they’d said. She does her yoga on the big open grass at the old palace site, gets bowed at by a deer, and watches him lose a tug-of-war with another one over his map. Then it’s burgers, go-karts and a boost button, and Tomoya, who’d always thought remembering was a lonely, heavy job, finds it’s a bit lighter when somebody’s next to you. Nowt gets said out loud on the bench at the end, mind. But there’s a “next time”, and neither of them lets it drop.






