ウブドの静かな朝と、緑の棚田のこと【インバウンド短編小説2】
The Lovely Yoga Morning in Ubud: A Sequel to the Taxi Stand to Brisbane
「ヨコハマの波止場の午後から、ブリスベンの朝まで」続編です。
第一章 そうだ、バリ行こう
エマから連絡が来たのは、私がブリスベンから横浜に戻って三ヶ月ほど経った頃だった。
I have news. I got my yoga instructor certification. It took longer than I expected, but I passed.
私はそれを読んで、エマがいつヨガをしていたのかと思った。
考えてみれば、彼女のことを私はまだよく知らなかった。会ったのは二度だけだ。
一度目はタクシー乗り場までの五分間、二度目はブリスベンの一週間。
それだけの時間で人のことがわかると思うのは、おそらく思い上がりというものだろう。
Congratulations. I didn’t know you did yoga.
There’s a lot you don’t know about me.
しばらく間があった。
I want to go to Ubud. To study properly. There are teachers there I’ve always wanted to learn from. Would you want to come? As a trip. Bali. Both of us.
私は返信するまでに、やはり少し時間がかかった。
時間がかかった理由を、今でもうまく言葉にできない。
迷っていたわけではなかったと思う。ただ、何かが変わるような気がして、少し立ち止まりたかったのだと思う。
When?
April. Before your flower season.
Then yes.
第二章 デンパサール空港のスタバ
ブリスベンから先にバリへ飛んだエマと、私は国際線の到着ロビーで待ち合わせをした。
指定された場所はスターバックスだった。
到着ロビーの一角にあるそれは、横浜でも東京でもシドニーでも見慣れたロゴを掲げていて、私は南国の空港でそれを見つけたとき、少し可笑しいような、少し安心するような気持ちになった。
エマは先に着いていた。
アイスコーヒーを前に、ヨガの本を読んでいた。ショートヘアが、到着ロビーの空調に涼しそうに揺れていた。
「Tomoya!」
私に気づいたエマが顔を上げた。あのグレートバリアリーフの青い目が、人工的な灯の下でも変わらず深かった。
「Sorry, were you waiting long?」
「Not really. Just enough time for one coffee.」と彼女は言って、空になったカップを見せた。「You want something? My treat — you came all the way from Yokohama.」
「I’ll get it.」
「Tomoya.」
「うん」
「I said my treat.」
エマのアイスコーヒーと、私のホットコーヒーを手に、私たちはウブドへ向かう車を待った。 外は眩しく、熱く、椰子の葉が風に揺れていた。
ここから始まる、と私は思った。何が始まるのかは、うまく言えなかったが。
第三章 ウブド、そしてヨガバーンへ
ウブドへの道は、緑が濃くなるほどに細くなっていった。
小さな祠が道沿いに点在し、どこかから甘い煙の匂いがした。
花びらと葉を編んだ小さな供物が、石畳の上に丁寧に置かれていた。
エマは窓の外をずっと見ていた。声が、いつもより静かだった。
「I’ve always wanted to come here,」と彼女は言った。
「You never came before?」
「No. I kept saving it.」
何かのためにとっておく場所、というものが人にはある。
私はそのことを、エマから学んだような気がした。
宿に荷物を置いてから、私たちはThe Yoga Barnへ向かった。
エマが翌朝からのクラスを確認するためだったが、せっかくだからランチを食べようということになった。
敷地内のカフェレストランは、木々に囲まれたテラスに白いパラソルが並ぶ、静かな場所だった。
エマはグリーンボウルを注文した。
私はメニューを眺めながら、生野菜をふんだんに使ったサラダに目が止まった。
美味しそうだった。しかし私は、バリに来る前にいくつか読んだ旅行記のことを思い出した。
バリ腹、という言葉があった。
現地の水に慣れていない旅行者がお腹を壊すことで、サラダや生野菜、あるいは水道水で洗った果物などが原因になる、と書いてあった。
そのため私はサラダを避けて、火を通したものだけを選んだ。
「You’re not having the salad?」とエマが言った。
「I’ll pass.」
「It looks good.」
「You can have mine.」
エマは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
メインの料理が来て、まったりと味わって食べていると、にわかに空が暗くなった。
冷たい風が吹き抜けた。
どこか遠くで雷が鳴り、次の瞬間、テラスに雨が叩きつけてきた。
スコールだった。熱帯の雨は、横浜の夕立とは別の生き物のようだった。重く、大きく、遠慮がなかった。
照明が消えた。
テラスが一瞬暗くなり、周りのテーブルから小さな声が上がった。エマが「Oh!」と言って、それから笑った。
「The power’s out」と私は言った。
「Bali does this,」とエマは言った。まるで昔からここに来ていたように、落ち着いた声で。「It’ll be back.」
雨の音だけがしていた。
数分後、照明が戻った。エマの青い目が、明かりの中で再び色を取り戻した。
「See?」と彼女は言った。
雨はもう少し続いて徐々に小雨になり、澄み渡った夕空が顔をのぞかせた。
おでかけ小ザメのアニソン
ヨガバーンから宿に戻ると、夕方になっていた。
エマはシャワーを浴びてから、私の部屋のテラスに来た。手にスマートフォンを持っていて、何かを探すように画面をスクロールしていた。
「I want to show you something,」と彼女は言った。「Or — play you something.」
スマートフォンから音楽が流れ始めた。 聞き覚えのあるイントロだった。日本の子供向けアニメの主題歌で、「おでかけ子ザメ」というタイトルだったと思う。「よりみち」という曲名も、確か覚えていた。なぜエマがそれを知っているのか、私にはすぐにはわからなかった。
「You know this song?」と私は聞いた。
「A friend in Brisbane has a kid. She watches it constantly. I got it stuck in my head and never got rid of it,」とエマは言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「I looked up the lyrics. I’ve been practising.」
そして彼女は歌い始めた。
英語の歌詞だった。発音はところどころ危なっかしく、メロディーから外れる瞬間もあったが、エマは気にしていないようだった。
スマートフォンのスピーカーから流れる伴奏に合わせて、彼女は身体を軽く揺らしながら歌っていた。
私はそれを、ただ聞いていた。
子供向けの歌だということはわかった。
しかし詞の意味よりも、エマがそれを覚えようとしたという事実の方が、私には不思議に響いた。
誰のためでもない練習を、彼女はどこかでしていたのだろう。
歌い終わると、エマは少し息を切らしながら私を見た。
「How was that?」
「Surprisingly good.」
「Surprisingly?」
「I meant it as a compliment.」
エマは笑って、スマートフォンの画面を消した。
「I used to think children’s songs were simple,」と彼女は言った。「But they’re not, really. They’re just honest.」
私はそれについて、何も言わなかった。
ただ、テラスの向こうに広がる棚田の闇を見ていた。
虫の声が、どこからともなく聞こえていた。
第四章 モンキーフォレスト
翌朝、エマは夜明け前に起きてヨガのクラスへ向かった。
私は一人でチャンプアン尾根道を歩いた。道の両側に緑が迫り、遠くに椰子の梢が揺れた。鳥の声がして、何の鳥かは私にはわからなかった。
エマが戻ってきたのは午前十時頃で、少し湿った髪のままテラスに来た。頬が上気していた。
「How was it?」と私はいつも通りに聞いた。
「Hard. And good,」と彼女はいつも通りに言った。
昼食のあと、私たちはモンキーフォレストへ歩いて向かった。ウブドの市街から十分ほどの、森の中にある聖域だった。
入り口をくぐると、すぐに猿が現れた。
バリの猿はカニクイザル、いわゆるニホンザルとは別の種だった。顔が灰色がかっていて、尾が長く、動きに独特の軽さがあった。
ヘアスタイルがなんともお洒落だ。
観光客のバッグを狙う猿、木の上でじっとしている猿、親子で毛繕いをしている猿。至るところに猿がいた。
エマは少し離れた場所に立って、一頭の猿をじっと見ていた。
「They’re so much bolder than I expected,」と彼女は言った。
「Japanese monkeys keep more distance,」と私は言った。「They’re famous for bathing — there are hot springs in Nagano(地獄谷野猿公苑) where they sit in the water in the snow. But they don’t usually come this close to people.」
「Japanese monkeys take baths?」
「There are famous photographs. Nagano. Monkeys sitting in open-air hot springs, snow all around them」
「That’s the most Japanese thing I’ve ever heard,」とエマは言った。笑いながら。
「The ones here are more forward,」と私は言った。一頭が私のカバンの方に興味を示しながら近づいてきていたので、私はカバンを体の前に抱えた。「The sense of distance is completely different.」
「Like people,」とエマは言った。「Every place has its own sense of distance.」
私はそれを聞きながら、横浜のタクシー乗り場のことを思った。
なぜそれを思い出したのか、自分でもうまく説明できない。
第五章 ティルタ・エンプル
ティルタ・エンプルへは、モンキーフォレストの翌日に行った。
聖なる湧き水の沐浴場で知られる寺院で、参拝者たちが白いサロンを巻いて水の中に入り、祈りを捧げていた。
エマはしばらくその様子を眺めてから、「I want to try,」と言った。
「The purification bath?」
「Yes. It’s supposed to be purifying. I want to feel it.」
係員のところへ行き、サロンを借りる手続きをした。エマは真剣な顔をしていた。ヨガの先生のもとへ通うときと、同じ顔だった。
「Tomoya, you’re not coming?」
「I’ll sit this one out.」
エマが私を見た。
「Why?」
「The water,」と私は言った。「I’m not used to the local water here.」
正直に言えばそれだけではなかった。ヨガバーンのランチで生野菜のサラダを避けたのも、屋台の果物に手を出さなかったのも、すべて同じ理由だった。バリ腹になれば、残りの旅が台無しになる。私はそれを恐れていた。
エマはしばらく私を見てから、「That’s fair,」と言った。責める様子はなかった。
「I’ll take photos.」
「You don’t have to.」
「I want to.」
エマは笑って、沐浴場の方へ歩いて行った。
私は石造りの回廊の端に立って、エマが水の中に入るのを遠くから見ていた。
噴水から流れ出る水に手を浸し、それから全身で水を浴びた。目を閉じていた。周りで同じように祈っている人たちの中で、エマの小柄なシルエットは、しかしどういうわけか、よく見えた。
水から出てきたエマは、少し違う顔をしていた。
何かが、静かに変わったような顔だった。
「How was it?」
「Cold,」と彼女は言った。「And clean.」
私はそれ以上聞かなかった。聞く必要がないように思えた。
第六章 棚田の夕暮れ
テガラランの棚田を見に行ったのは、四日目の夕方だった。
観光客は多かったが、棚田の端の方まで歩いていくと、人が少なくなった。椰子の木と棚田が段を重ねて広がり、夕陽が水田を鈍く光らせていた。
エマがカメラを出して、棚田の写真を撮り始めた。
私はその少し後ろに立って、彼女が撮るのを見ていた。
エマは写真を撮るとき、口をわずかに開ける癖があった。そのことに気づいたのは、ブリスベンのスタジアムで試合に集中していたときだった。今も同じだった。
「Tomoya, come here,」と彼女は言って、私を引き寄せた。「Stand here.」
「Are you going to photograph me?」
「Yes. Is that okay?」
「I suppose so.」
彼女はシャッターを押した。何枚か。それからスマートフォンを下ろして、棚田の方を向いた。
「ねえ」とエマが言った。
「うん」
「来てくれてよかった。本当に。」
夕陽が棚田の水面を、やわらかく照らしていた。
私は返事をしようとした。しかし言葉が出てくる前に、エマがもう一度写真を撮り始めた。私はそのまま棚田を見た。
言えなかったことが、言えなかったまま、夕暮れの中に溶けた。 それが残念だったかどうか、今でも正直よくわからない。
第七章 最後の朝
最終日の朝、エマはいつもより早く戻ってきた。
「My teacher said something today,」と彼女はテラスに座りながら言った。コーヒーを両手で包むようにして持っていた。「Matching your breath to your movement matters less than knowing why you move in the first place.」
「Is that about yoga?」
エマは少し考えた。
「Maybe. Maybe not,」と彼女は言った。
棚田の上を、鳥が一羽ゆっくりと横切った。
「Emma,」と私は言った。
「Yeah.」
「When you come to Yokohama — I know a yoga studio. I can introduce you. A friend runs it.」
エマはしばらく私を見ていた。それから、ゆっくり笑った。
「That’s very Tomoya of you,」と彼女は言った。
「What does that mean?」
「It means,」と彼女は言った。「Yes.」
棚田が、朝の光の中で静かに輝いていた。
エピローグ
帰りの飛行機の中で、エマはまたヨガの本を読んでいた。
しかし今回は、ページを折ることも書き込みをすることもなく、ただ読んでいた。
離陸してしばらくすると、エマが本を閉じてこちらを見た。
「Tomoya.」
「Yeah.」
「April in Yokohama.」
「Yeah.」
「The flowers, the harbour, the ice cream.」
「All of that.」
「And a yoga studio.」
「There is one.」
エマはまた本を開いた。
私は窓の外を見た。
雲の下に、バリ島の緑がまだ見えていた。
やがてそれは、青い海に変わった。
どこまでも続くような、深い青だった。
— 了 —
Summary
Some months after Tomoya’s visit to Brisbane — and the rather memorable evening at Suncorp Stadium — Emma Collins writes with two pieces of news. She has earned her yoga instructor certification. And she would like to go to Ubud.
Ubud, in Bali, is precisely the sort of place one saves for the right moment. Emma has been saving it for some time. She asks Tomoya if he would like to come. He says yes.
Their reunion takes place at a Starbucks in the international arrivals lobby of Ngurah Rai Airport — a detail which strikes Tomoya as simultaneously absurd and entirely fitting. Emma is already there, aiced coffee finished, yoga book open. The familiar logo, in the heat of Bali, is quietly reassuring.
In Ubud, Emma attends early-morning classes at The Yoga Barn. One afternoon, they take lunch at the studio’s café restaurant, during which a tropical squall descends without warning, the lights go out, and the two of them sit in the sudden dark listening to rain on the canopy. The power returns within minutes. Emma, entirely unruffled, says: Bali does this. Tomoya notes that she seems to have known this all along.
The following day they visit the Sacred Monkey Forest. The Balinese long-tailed macaques — bolder and considerably less bashful than their Japanese counterparts — prompt a lengthy discussion about monkeys, cultural distance, and the famous snow-bathing primates of Nagano. Emma finds the latter to be the most Japanese thing she has ever heard.
At Tirta Empul, Emma wishes to bathe in the sacred spring. Tomoya declines — he has, throughout the trip, avoided raw vegetables, fresh salads, and anything involving unboiled local water with a vigilance that is, by any fair assessment, remarkable. He watches from the stone colonnade as Emma wades into the purification pool. She emerges looking quietly different. He does not ask why. He takes photographs instead.
On the last morning, Emma’s teacher offers a lesson that extends, Tomoya suspects, well beyond yoga. Tomoya responds by mentioning a studio in Yokohama. Emma says yes.
It is, all things considered, a thoroughly proper ending — or rather, a thoroughly proper beginning.






