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台風が来た長崎平和の日は祈念式典が屋内開催だった

台風が来た長崎平和の日は祈念式典が屋内開催だった
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2023年の長崎平和祈念式典は台風6号接近のため、会場を出島メッセ長崎に変更。
参列は主催者のみで、大幅に規模縮小して実施されました。

場所を変更して屋内での開催はなんと60年ぶりだそうで、総理も来られずビデオメッセージのみというとてもレアな式典になりましたね。

とはいえ、コロナの規制がゆるんで初めての式典ということでハードルが下がったので、通常通りの形での開催を期待していた方は多いと思います。

このブログでは原爆投下の経緯、ヒロシマ・ナガサキの被害者数の差、日本の降伏した経緯などのトピックがありますが、まずは長崎平和祈念式典とは?という部分からみてみましょう。

その前に
長崎平和の日って何?↑

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長崎平和祈念式典とは

長崎平和祈念式典は、毎年8月9日に長崎市の平和公園で行われる、原爆の犠牲者を悼み、世界の恒久平和を願う式典です。

通常、式典はテレビで生中継され、YouTubeや長崎市のホームページ、ニコニコ生放送でもライブ配信されていますね。

式典には長崎市長や内閣総理大臣などの来賓が出席し、平和宣言や挨拶を行います。

また、市内の小中高生が献水や献花、平和への誓いや合唱などに参加します。

長崎平和祈念式典が始まったきっかけには、当時の占領軍の長崎軍政部司令官だったビクター・デルノア中佐が大きな役割を果たしました。

デルノアさんは原爆投下の正当性に疑問を持ち、1948年に初めて長崎市に式典を許可たのです。

長崎平和祈念式典は、原爆の悲惨さと核兵器廃絶の必要性を世界中に伝える極めて重要な式典です。

今後機会があれば、あなたもぜひ実際に式典に参加してみてくださいね。

米軍による原爆投下の経緯は?

人類への原爆投下は、第二次世界大戦の末期に、アメリカが日本に対して行った核攻撃です。

アメリカはドイツが原爆を開発することを恐れて、1942年からマンハッタン計画という極秘のプロジェクトで原爆の研究を始めました。

そして1945年7月16日に、ニューメキシコ州で人類史上初の原爆実験(トリニティ実験)に成功しました。

当初、原爆はドイツを対象に開発されていましたが、ドイツが1945年5月に降伏したため、米軍は目標を日本に変更。

ついに日本の早期降伏を促すために、原爆を使用することを決定します。

京都など18か所が候補地として挙げられましたが、最終的に結果としては広島と長崎が選ばれることになりました。

1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾は、「リトルボーイ」と呼ばれるウラン型のものでした。

爆発の瞬間に約8万人が死亡し、その後の放射線や火傷などでさらに多くの人々が亡くなりました。

その3日後、1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾は、「ファットマン」と呼ばれるプルトニウム型のものでした。

これはウラン型原爆より破壊力が強く、形を例えるなら、リトルボーイがほっそりとした鉛筆のようなデザインとすれば、ファットマンは卵のような丸っこい形です。

当初の目的地は小倉(福岡県)でしたが、当日に小倉の上空が曇っており目標の確認が難しいことから、その場で急きょ長崎へと変更されたという経緯があります。

爆発の瞬間に約4万人が死亡し、その後も放射線や火傷などで多くの人々が亡くなりました。

ヒロシマ・ナガサキの原爆投下は、人類史上初めて核兵器が実戦使用された事例であり、核兵器の恐ろしさと核兵器廃絶の必要性を訴える重要な歴史的事実です。

灯篭流し 広島 原爆ドーム

広島と長崎で、原爆被害者数に差があるのは何故?

広島と長崎で原爆被害者数に差がある理由は、いくつかの要因が考えられます。

まず、原爆投下時の所在人口に違いがあります。
広島市は約35万人、長崎市は約27万人でした。

つまり、広島市の方が約8万人多くの人々が被爆しました。

次に、原爆投下地点に違いがあります。
広島市では、市街地の中心部に近い青野橋付近に原爆が落とされました。

長崎市では、当初の目標であった市街地の中心部から外れた浦上川流域に原爆が落とされました。

これは、長崎上空に部分的な雲や煙がかかっていたため、目標を見失ったからです。

さらに、地形に違いがあります。
広島市は平地でしたが、長崎市は周囲に山がありました。

山によって熱線や爆風が遮断されたことにより、被害が小さくなりました。

このように原爆投下時の所在人口、原爆投下地点、地形などの違いが、被害者数に差をもたらしたと考えられます。

原爆は非常に恐ろしい兵器であり、その放射能汚染による被害は今もなお続いています。
核兵器廃絶の必要性を訴えるためにも、広島と長崎の歴史を忘れないでください。

なぜ日本はその前に降伏しなかった?

日本が降伏しなかった理由は、複雑で多面的なものですが、概ね次の5つの要因が考えられます。

✓日本は当時、国体護持と皇土保衛という戦争目的を掲げており、無条件降伏を受け入れることは天皇制や国家主権の放棄を意味すると考えられていた

✓日本はソ連に和平斡旋を依頼していたが、ソ連は日本に対して宣戦布告し、満州に侵攻した。これにより日本は外交的に孤立し、和平の望みを失った

✓日本は米軍による原爆の開発や使用に関する情報が不十分であり、原爆の威力や影響を正しく認識していなかった。また原爆が限られた数しかないと考えており、連合国がさらに原爆を投下することを予想していなかった

✓日本は本土決戦に備えて軍事力を集中させており、連合国の上陸作戦に対して抵抗することを決意していた。日本は連合国の損害を増やすことで、有利な講和条件を引き出すことができると期待していた

✓日本は軍部や官僚の間に強い戦争継続派が存在しており、降伏に反対する声が強かった。さらに憲兵隊や特別高等警察などの治安機関が、戦争終結を求める動きを弾圧していた

このように日本が降伏しなかった理由は、政治的・外交的・軍事的・社会的・心理的な要素が絡み合っていたと言えます。

しかし広島と長崎への原爆投下やソ連の参戦によって、日本の敗北は不可避となり最終的には、昭和天皇の決断によって降伏が決まりました。

日本の降伏は太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結という歴史的な節目であり、核兵器の恐ろしさと核兵器廃絶の必要性を訴える重要な教訓でもありますね。

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The circumstances surrounding the atomic bombing of Nagasaki

The atomic bombing of Nagasaki occurred during World War II and was the second and last use of nuclear weapons in warfare. Here are the circumstances surrounding the bombing:

  1. Background: World War II was raging on, with Japan being one of the Axis Powers. The United States had been developing atomic weapons as part of the Manhattan Project, a secret research project aimed at creating nuclear weapons.
  2. Hiroshima Bombing: On August 6, 1945, the U.S. dropped an atomic bomb nicknamed “Little Boy” on the city of Hiroshima, causing immense destruction and loss of life. The bombing prompted Japan’s leaders to consider surrender, but some elements within the Japanese military and government were still hesitant.
  3. Potsdam Declaration: On July 26, 1945, the Allies issued the Potsdam Declaration, which called on Japan to surrender unconditionally. The declaration warned of “prompt and utter destruction” if Japan refused to surrender.
  4. Japan’s Response: Despite the devastation caused by the Hiroshima bombing and the Potsdam Declaration, Japan’s leadership was divided over surrender. The military and some political leaders were reluctant to give in, while others recognized the need to end the war.
  5. Selection of Target: On August 9, 1945, the U.S. dropped a plutonium-based atomic bomb called “Fat Man” on the city of Nagasaki. The city was chosen as the target due to its industrial and military significance, as well as its status as a major port and shipping hub.
  6. Bombing of Nagasaki: The bombing of Nagasaki occurred at 11:02 AM local time. The blast and subsequent fires destroyed a significant portion of the city, causing widespread death and devastation. The estimated death toll from the Nagasaki bombing is around 70,000 people.
  7. Surrender: The shock of the Nagasaki bombing, combined with the Soviet Union’s declaration of war against Japan on August 8, 1945, led to intense discussions within the Japanese government. Emperor Hirohito, who had been largely a symbolic figure, intervened and pressed for surrender to prevent further destruction. On August 15, 1945, Japan officially announced its surrender, effectively ending World War II.
  8. Aftermath: The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki had a profound impact on the world, leading to the realisation of the devastating power of nuclear weapons. The bombings also raised ethical and moral questions about the use of such weapons and the long-term health effects on survivors.

The bombings played a significant role in shaping the post-war world order and influenced discussions about disarmament and non-proliferation of nuclear weapons. The events surrounding the atomic bombings continue to be a subject of historical and ethical debate.

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ではノシ